先日、舞台「画素数の低い愛」を観に行きました!
不器用なキャラクターたちのやり取りは笑えるところもあれば、「刺さる」ところもあって、人間ってこういうものだよなぁと思わせられました。
「画素数」は簡単に言えば写真やディスプレイのきめの細かさを表すものですが、それが低いということはいったいどういうことでしょうか。愛情が粗いということでしょうか。
少なくとも、私はこの作品を見て登場人物たちの愛が粗いとは思いませんでした。
でも、その愛はひどく「分かりづらい」のです。
例えば、ストレートに、あるいは簡単に「好きだよ」「愛してる」なんて言葉は出てきません。
分かりづらい、写真で言えばボケている。
愛情はあるけれど、それを分かりやすく伝えることができない。いつもピントがずれて、ボケている。ボケているから伝わらない。
でも、私たちの日常も似たようなものですよね。色んな気持ちを遠回しに言ったりします。言うならまだしも、言語化しないことだってざらにあります。「察してよ」文化です。
だけど逆に、言葉にすると軽くなってしまうものもある。画素数が高い写真が「いい写真」とは限らない。
読んでいる方でもしかしたら経験がある方がいるかもしれませんが、写真や映画でモノクロのほうが心に残ることってありませんか。あるいは、フィルム写真、ドット数の少ない昔のゲームキャラクターに惹かれるとか。
人間の脳は、補完する力を持っています。画質が粗かったり、色が無かったり、要は情報が欠落していると、それを勝手に想像してしまうのです。でも、そのおかげで私たちが感じる世界は大きく広がります。
分かりやすくて、考える必要がないものは脳もサボりますから、それ以上の広がりっていうのはなかなか期待できません。
分かりづらくて、考えないといけないもののほうが、脳は動くのです。
これが画素数の低い写真でも「いい!」と思うメカニズムの1つです。
ちょっと脱線気味ですが、要するに愛情も同じなんじゃないでしょうかということが言いたいのです。
分かりづらくて、伝わらないかもしれないけど、そこにこそ愛情のコアがあるんじゃないか。
そして、そうであるがゆえに、不器用な主人公のマコトが最後に放ったストレートな「好きです」にはブラックホールに飲み込むような強さがあると思いました。
見栄を張ってしまったり、嘘をついてしまったりするマコトですが、彼は一貫して優しい人です。作中でサボテン(見た人なら分かります笑)に「優しいがゆえに残酷だ」と言われてしまいますが、それでも彼は真っ直ぐに優しい。
他の登場人物も、それぞれの愛情を持っているけれど、それがストレートに出されることはほとんどなく、ずっとボケ写真のように分かりづらい形で表現されていました。観客はそれを第三者として見ているから、分かる部分もあるけれど、実際の人間関係の中ではなかなか分からないものですよね。
いつも、お誘いいただくしほんさんの演じていたサエは中でも一番そういうものが分かりづらい役どころでした。観客も最後のほうまではっきりと真意が分からない。なので、ちゃんと「いい人」で良かったです(笑)
「画素数が低い」ほど、もしかしたら愛情は深いのかもしれないなんて、考えました。
もう1つ、この作品の軸になっているのは「何者でもない人たちのもがき」です。主人公は声優の卵ですし、ヒロインも漫画家の卵です。主人公の生家である写真館は赤字で存続危機。
中心人物たちが皆もがいています。
私自身が何者でもないし、「普通のレール」に乗れない人なので、苦しみや辛さは非常に刺さるものがありました。
何かあるんじゃないか、この先に自分にとってベストな未来があるんじゃないかと期待する半面、そうでない現実を外部から突きつけられ続ける痛みは実感としてあるので、非常によく分かるなぁと思いましたねえ……。
印象的だったのは「サボテンと亀」ですね(笑)
サボテンは比較的初期からそうなのかなと思っていたのですが、いやまさか「亀」だとはw
どおりで会話がかみ合わないわけです。
サボテンはずっと主人公を見守ってきたんだなあと思って、終盤に「でももう欲しいのはわたしの言葉じゃないね」みたいなセリフがあって、めっちゃ切なかったです。
サボテンの「シャッターチャンス!」はすんごい印象に残っています。
しほんさんが友池さんの演出作品に多く出られているのもあって、友池さんの作品を見ることが自然と多いので、常連の役者さんも結構いらっしゃって、「あの方は別のときはこの役だったな」なんてことを思いながら見るという楽しみも増えました。同じ方でも、全然違う印象を受けるのがお芝居の面白いところですよね!
色々なことを感じたり、考えさせてもらえる作品でした!