坂口安吾の「堕落論」は、私にとって何度も読み返しているバイブルのような本です。
社会評論としても、一種の哲学としても読める幅の広さがあり、「人間の弱さを直視しながら、自分の人生を生きろ」というメッセージは勇気を与えてくれるものです。
よく使われる「生きよ堕ちよ」というメッセージは常識からかけ離れていますが、実際には「堕落せよ」と言っているというより、『人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。』[1]というように、人間は生きている限り、堕落する生き物なんだということを言っています。
ここでいう堕落というのは、簡単に言えば、欲望に忠実であるということです。欲に溺れるとかでもいいかもしれません。
社会の方は、それを防ぐために規範であったり、道徳を作るわけですが、しかしそれは実は非人間的なわけです。
ただ、ここからが面白いところで、安吾は『だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。』[1]とも書いています。
人間は弱いので、欲望に溺れてしまうけれど、溺れ続けることもまたできないというのです。何らかの美学やこだわり、自分が大切にしたい価値観が行動を規制します。
でも、その「美学やこだわり、自分が大切にしたい価値観」は誰かに言われたものではなく、自分で発見したものです。それにより、人間は自分自身を救うことができる。自分として生きることができる。
そして、それは一度堕落しなければ見つけられません。
だから、安吾は『生きよ堕ちよ』[1]と言うのです。
安吾が後に書いた「続堕落論」では、堕落についてより明確に『人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。』[2]と書いており、人間らしさ、そして堕落とは要は好き嫌いを言明することであるとしています。
そして、『この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ。』[2]と言います。
現代社会は、ある種の人にとって生きづらい社会です。
私自身、生きづらさを感じ続けています。
だからこそ、『日本国民諸君、私は諸君に、日本人及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ。』[2]という安吾の鼓舞に励まされます。
色々な精神的な抑圧が、私たちを生きづらくさせているのだとすれば、それを打破するには、私たち自身の欲求をもっと聞き取る必要があります。
私はお酒を飲みませんが、居酒屋でまずはビールという人は多いはず。でも、自分はそうじゃないなと思ったら、レモンチューハイを飲んだっていいわけです。
そういうところから、「堕落」を始めてみてはどうでしょうか。